珈琲館大野辻店


今回の検察の主任検事逮捕の件はまさに策士策におぼれると言う言葉がピタリとあてはまる。それはデータを遊んでいるうちに「書き換わってしまった。」といった供述に端的に現れている。おそらくこの主任検事のような人材は検察のこれまで対峙してきた数多くのヤマを張るうえで重宝されてきたのであろうし、今回のことはその過去の栄光のなかで徐々に慢心してきた結果、社会の正義の為に働くというよりも自己の力を顕示し誇示する手段としてのヤマを張ることに変質してきたことによる当然の帰結と見ることも出来る。しかしここまでに起こったことは。一介の検察官僚の慢心と暴走に過ぎないし、ありがちなことだがそこから先に起こったことは検察で、いや憲政史上絶対にあってはならない事なのだ。それは検察がその個人のおかした犯罪を組織ぐるみで隠蔽したと言われても仕方の無い言動に終始していることであり、その自浄能力がとわれていることである。可視化の叫ばれている中でこれまでの本件で起訴できない事件は、別件で逮捕し、その後どんな手段を講じても起訴に持ち込むといった検察のこれまでの荒業や検挙スタイルそのものが問われているのだ。そのなかにはいまだに報道機関(T○Sのみ○も○たなど)によって世論誘導されている小○問題があり、鈴木○男の問題もあるが鈴木問題に関してはすでにこの問題が世論の批判を受けてからでは検察の威信そのものがゆらぎ逮捕、収監が不可能になると見た検察の判断から、周知のとおり突如、しかも民○党の代表選のさなかにさまざまな禍根を残すことも予測されるにもかかわらず最高裁への再審請求が棄却され、事実上の実刑が確定してしまった結果鈴木○男の政治生命は絶たれた。しかも同時に小○への優勢をそぐ効果も併せ持つという荒業というほか無い行動にに出たのも記憶に新しい。まさに特捜検察のあくなき権力闘争のはての自己大崩壊の序章といえよう。